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日本語を支えた「大野晋さん」

【2008/08/10】

●天声人語(朝日新聞、2008.7.15.火曜日、p1.)

旧制一高の入試に挑んだ国語学者の大野晋さんは、落ちたらパン屋になろうと思っていたそうだ。合格発表には父親が行ってくれた。首尾良く合格していた。何番で合格だったかと聞くと、父親は一息おいて「お前の後には誰もいないよ」(『日本語とと私』)
28人中28番。日本は腕の良いパン職人を失ったかも知れないが、優れた国語学者を得た。日本語の源流を追って時を超え、海を渡り、旅を続けてきた。その大野さんがきのう、88歳で亡くなった。

東京の下町の砂糖問屋に生まれた。中学時代、山の手の級友宅に遊びに行き、シチューやピアノに驚いた。同じ東京なのに言葉遣いや食べ物も違う。ショックを受けて下町に帰ると、なれ親しんだ「日本」があった。
そうした体験をへて「日本とは何か」が終生かけた問いになる。還暦を過ぎて、南インドのタミル語に日本語の起源があるなどと発表して論争を呼んだ。大胆さゆえに批判もわいたが、信念は揺るぎなかったようだ。

硬軟織りまぜて日本語の知恵袋であり、御意見番でもあった。小誌の記事も、疑問には大野さん頼みが目立つ。例えば、開店祝いなどで「●●さん江」と何故書くか、大野さんいわく、「へ」だと「屁」を連想するからでは?
最近の文芸春秋の鼎談では、日本人が日本語を放棄しているようなカタカナ語の氾濫を嘆いたいた(6月号)。交友のあった作家の丸谷才一さんは、「本居宣長よりも偉い最高の日本語学者だった」と悼む。宣長と雲の上で、日本語談義を始めるころだろうか。
(了)


●日本人の言語運用を支えた「大野晋さんを悼む。作家:井上ひさし(朝日新聞、2008.7.15.火曜日、p35)

私たち日本人の日常の言語運用の面で、これほど大きな役割を果された方は日本史上、始めてでしょう。日本人の言葉をじつに深いところで支えて下さった巨人の一人でした。大野さんの業績については、三つの素晴らしさがすぐ浮かびます。

私が大学を卒業し、社会に出ようかなというころ、『広辞苑』が刊行されました。辞典と事典を統合した辞書であり、「走る」とか「食べる」とか、ふつうの大和言葉の解説がすばらしかった。
私の場合で言えば『広辞苑』を一枚一枚めくり、形容詞、名詞など日本語の基礎を學びました。そこで言葉が生まれでたときの感覚や、それまでに見たことも聞いたこともない素晴らしい語釈に出合いました。表現が本当に親切で、深かった。それらを大野さんが書かれていたと、あとで知りました。

共同編集された『岩波古語辞典』は今も毎日、五、六回は引きます。角川書店刊の『角川必携国語辞典』も、「うとうと」と「うつらうつら」の違いなど日本語の機微を教えてくれます。とにかく、大野さんは私たち日本人の言語運用の支えでした。
とくに強調したいのは、「文筆家としての大野晋」です。実に優れた文章の書き手でした。私が心を打たれたのは、「日本人が無茶な戦争にのめり込んで行ったのは、日本語の使い方に原因があったのではないか」と問うた点です。この問題に関する文章は淡々としていながらきちっと引き締まり、それでいて情感がこもっています。

戦争の原因を探り、軍隊に目を向けたのは司馬遼太郎さん。弱い市民社会や不条理にメスを入れようとしたのは丸谷才一さん。日本語の使い方に着目したのが大野さんでした。お三方とも戦時中に「戦後まだ生きていたら、この問題に取り組みたい」と思われた。当時の青年たちの心中を察すると、涙がこぼれてきます。

もう一つは日本語は南インドのタミル語から来たという見方を説かれたことです。保守的な国語学の論壇に刺激を与えました。私はタミル語説を信じていますし、この説の大フアンです。私たちの日本語は、もとからの土着の言葉、南洋からきた音韻などいろいろな要素でできていますが、稲作のシステムと一緒にタミル語は日本語の核心を作ったのでしょう。

私は、大野先生が書き、編集した辞書を信じて、ものを書いてきました。信じる人が唱えているから、その内容も信じているのです。明日も明後日も『岩波古語辞典』を引くでしょうから、そのたびに私の中で、大野先生はお元気に生きつづけていてくださるはずです。(談)